「赤と黒」誤訳騒動 (1)
野崎歓訳「赤と黒」に対する誤訳騒動。
下川氏の指摘を読むと、誤訳もなにも翻訳以前、という気がしてくる。
まともにテキストに向かい合った形跡がないのだ。既約も参考にしてない。
やっつけ仕事そのまんま、の印象である。
誤訳そのものは、仕方ない面もあろう。しかし慣用表現や表記の不自然さの度合いは、「常軌を逸している」といっていい。
ここまでくると、これは誤訳が問題なのではない、と思う。
ではなにが問題なのかというと、「翻訳文化」、「出版文化」、「テキストに対する意識」、といったものが絡み合っているのではないだろうか。
日本の翻訳出版のレベルは低い、そう聞いたことがある。出版点数は多いが、その質は低い、と。個人的には、うなずける指摘である。しかし、それは物事の一面にすぎず、べつの見方もできるかもしれない。
たとえば、よく日本人の英語力が問題になるが、これは日本人の英語学習者の層の厚さのためもある、と聞いたことがある。途上国の英語学習の多くがエリート候補なのに対し、日本には人生のそういたレールとは無縁の英語学習者の割合が多いので国別の英語の成績がよくないのは当たり前だと。もちろん日本人にも優秀な英語の使い手は今も昔も他国に見劣りしないぐらいいる、けれど、全体でみるとその部分が薄まってしまう、という説だ。
この説を初めて知ったとき、多少安堵したことを覚えている。
では、日本の翻訳出版のレベルが低いのは、日本の読書層の厚さのあらわれなのであろうか。まともな翻訳作業が追いつかないくらいの巨大な需要のせいで、粗雑な訳本も多量に出てきてしまうのだろうか。
もしそうだとすると、ほんの少しは安心できる。
しかし、訳者がまともにテキストに向き合おうとしない点、下訳者だかなんだかしらないが、ほとんどの作業をした筈の人物の日本語力の低さ、そしてそれをチェックできない編集者の怠慢あるいは無知、は、イヤな感じを残したままだ。
翻訳物に目を通す習慣がある人には、意味不明の日本語など日常茶飯事だが、これが本当に茶飯事のままでいいのだろうか。いや、いい筈がない。
テキストに対する姿勢、というのは、その人の精神のありようを測るメジャーのようなもの。そして、翻訳書のあり方は、その国の国民の精神のありようを反映してるとわたしには思える。
もちろん、測るといっても一意的に序列がつくものではない。外国の文物に興味がない人もたくさんいるし、書物じたいに興味がない人はもっとたくさんいる。そういう人はそういう人でなんら問題ないし、外国語を多少知っているからといって人間の値打ちがあがる筈もない。
それに、誤訳も珍訳も超訳もひっくるめて、外国の書物をせっせと日本語に移す作業にこれだけ熱心になれるというのは、日本人のすばらしいところ、といっていいかもしれない。
しかし、日本を代表する大学の現役教員名義でこれだけお粗末なものが出る、そしてそれが(とてもいい翻訳だと)話題になる、評判になる、というのは、とても肯定できるものではない。
出版、というのは広義の教育機能を持つ。慣用表現や決まった表記の語句などは、読書を通じて身に付いていくものであろう。義務教育を終えた人の全員が「壁を建立」に違和感を持つとは限らないのである。
だとしたら、翻訳の名義人は、必ず自分で訳文をチェックし、ある程度納得(完全に納得というのはないだろうが)しなければ出版しない、という気概をもってほしいものである。野崎という人は、生活に困っているわけではあるまい。この翻訳を仕上げないと生活できない、というわけではあるまい。締め切りは当然あるだろうが、それはどの世界も同じである。
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コメント
同感です。
古典新訳文庫の亀山訳『カラマーゾフの兄弟』でも、全く同一の誤訳問題が指摘されています。(「ドストエーフスキイの会」のHP)訳者も編集者ももっと真摯にテキストに向き合ってほしい。出版社も責任ある対応をしてほしいものです。
投稿: fu | 2008年6月14日 (土) 12時56分
ほかにも問題になっているのですか。誤訳そのものはまあ、仕方ないにしても、出版社の対応が悪すぎますね。
投稿: setera | 2008年6月16日 (月) 12時35分