いかの漁師焼きとフランスパン

海鮮系居酒屋メニューの「いかの漁師焼き」。
いつもはビールの肴なのだが、これって意外とワインと合うのでは、とふと思う。
今度試してみよう。

さらに、具を食べ終わったあとの、ドロドロソース。そのまま食べる(嘗める)とちょっと塩辛い。が、フランスパンと
合わせてみるのはどうだろう?  いきつけの居酒屋にフランスパンは置いてないので(それが普通)、すぐには試せないのだが、
予想では結構いけると思うのだが。

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「赤と黒」誤訳騒動 (2)

以前、地元の図書館で借りてきたスタンダール全集(第3巻「リュシュアン・ルーヴェン」、人文書院)にこんな訳文が載っていた。

当時、かなり無分別だがひじょうに勇気のある若干の青年が、
国王の廃位を要求しており、理工科学校(チェイルリー宮の
親玉から快からず思われている)は、校内に厳重に足留めを
くらっていた。

一読して意味が分からない。

それもそのはず、主語にあたる ” 理工科学校” と、その述語である "足留めをくらっていた" の組み合わせがおかしいからである。"学校" が "校内に足留めをくらう"  筈がない。

誤訳は、不可避の面もある。慣用からはずれた日本語の用法も、まったく理解できないわけではない。しかし、この訳文は文として意味をなさない、「日本語以前」 である。誤訳であることにも間違いないが、それ以前の問題である。

もちろん、人間だからミスはある。だが、冒頭(1ページ目)第2パラグラフ1行目にこんなものが目に入ると、読む気が失せる。先が思いやられるからだ。全集というのは、細心の注意を払って完成させるものではないのか。

上記の内容は「赤と黒」の誤訳問題とは直接関係ないのだが、杜撰な仕事ぶり、という点では共通している。そして、わたしがいちばん気になるのは、まさにこの点である。訳者(の名義人)であれ、編集者であれ、自分が世間に送り出すことばについて、もう少し注意深くなって然るべきであろう。

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「赤と黒」誤訳騒動 (1)

野崎歓訳「赤と黒」に対する誤訳騒動。

下川氏の指摘を読むと、誤訳もなにも翻訳以前、という気がしてくる。
まともにテキストに向かい合った形跡がないのだ。既約も参考にしてない。
やっつけ仕事そのまんま、の印象である。

誤訳そのものは、仕方ない面もあろう。しかし慣用表現や表記の不自然さの度合いは、「常軌を逸している」といっていい。

ここまでくると、これは誤訳が問題なのではない、と思う。
ではなにが問題なのかというと、「翻訳文化」、「出版文化」、「テキストに対する意識」、といったものが絡み合っているのではないだろうか。

日本の翻訳出版のレベルは低い、そう聞いたことがある。出版点数は多いが、その質は低い、と。個人的には、うなずける指摘である。しかし、それは物事の一面にすぎず、べつの見方もできるかもしれない。

たとえば、よく日本人の英語力が問題になるが、これは日本人の英語学習者の層の厚さのためもある、と聞いたことがある。途上国の英語学習の多くがエリート候補なのに対し、日本には人生のそういたレールとは無縁の英語学習者の割合が多いので国別の英語の成績がよくないのは当たり前だと。もちろん日本人にも優秀な英語の使い手は今も昔も他国に見劣りしないぐらいいる、けれど、全体でみるとその部分が薄まってしまう、という説だ。

この説を初めて知ったとき、多少安堵したことを覚えている。

では、日本の翻訳出版のレベルが低いのは、日本の読書層の厚さのあらわれなのであろうか。まともな翻訳作業が追いつかないくらいの巨大な需要のせいで、粗雑な訳本も多量に出てきてしまうのだろうか。

もしそうだとすると、ほんの少しは安心できる。

しかし、訳者がまともにテキストに向き合おうとしない点、下訳者だかなんだかしらないが、ほとんどの作業をした筈の人物の日本語力の低さ、そしてそれをチェックできない編集者の怠慢あるいは無知、は、イヤな感じを残したままだ。

翻訳物に目を通す習慣がある人には、意味不明の日本語など日常茶飯事だが、これが本当に茶飯事のままでいいのだろうか。いや、いい筈がない。

テキストに対する姿勢、というのは、その人の精神のありようを測るメジャーのようなもの。そして、翻訳書のあり方は、その国の国民の精神のありようを反映してるとわたしには思える。

もちろん、測るといっても一意的に序列がつくものではない。外国の文物に興味がない人もたくさんいるし、書物じたいに興味がない人はもっとたくさんいる。そういう人はそういう人でなんら問題ないし、外国語を多少知っているからといって人間の値打ちがあがる筈もない。

それに、誤訳も珍訳も超訳もひっくるめて、外国の書物をせっせと日本語に移す作業にこれだけ熱心になれるというのは、日本人のすばらしいところ、といっていいかもしれない。

しかし、日本を代表する大学の現役教員名義でこれだけお粗末なものが出る、そしてそれが(とてもいい翻訳だと)話題になる、評判になる、というのは、とても肯定できるものではない。

出版、というのは広義の教育機能を持つ。慣用表現や決まった表記の語句などは、読書を通じて身に付いていくものであろう。義務教育を終えた人の全員が「壁を建立」に違和感を持つとは限らないのである。

だとしたら、翻訳の名義人は、必ず自分で訳文をチェックし、ある程度納得(完全に納得というのはないだろうが)しなければ出版しない、という気概をもってほしいものである。野崎という人は、生活に困っているわけではあるまい。この翻訳を仕上げないと生活できない、というわけではあるまい。締め切りは当然あるだろうが、それはどの世界も同じである。

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便利ファインダー

フォルダを開いてファイルを表示したとき、何が入っているファイルなのか、ナビゲーター表示されると便利。

ファイルの内容がプレビューされる機能も最新のOSにはあるようだが、時間がかかりそうだ。
それより、付箋紙のようにファイルに自分のメモを貼ることができると便利だと思う。

ブラウザやその他のデスクトップアプリケーションのように、カーソルをファイルの上で止めると、
自分で貼付けたメモ内容がナビゲーター表示されるのである。

ファイル名をそれらしく("Intention Revealing Name" )して対応するには限度があるし、デフォルトで名前が決まっているものなどははじめから無理である。何のファイルだか、開かずとも、また中身をプレビューせずとも、自分で書いた覚書がでてくれるのが一番助かる。

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連休明け

だけでも辛いのに、普段より仕事の量が増えている。
今日はキツカッタ。

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澁澤龍彦「幻想美術館」

巖谷國士監修で、国内にある澁澤龍彦ゆかりの品(美術作品だけでなく、自筆原稿や自筆デッサン、キルヒャー『シナ図説』やエルンストの画集のような関連図書も含む)を集めた「澁澤龍彦 幻想美術館」が北浦和の埼玉県立近代美術館で開催されている。GW中に妻の実家(川口)に泊まった折に出かけてみる。

著書で見知っていた作品の実物を見ることができたのにも満足したが、それ以上に、手元にある限定された著作(文庫本が数冊)からだけでは窺うことのできなかった澁澤像が見えてきたのが興味深かった。エルンストには最大限の賛辞を惜しまなかった彼だが、画集の監修までしていたとは。土方巽との交流は知っていたが、その全公演に足は運んでいたとは。そのほか、日本の作家にも目を配っていたことがわかる展示だった。

印象に残ったものは多々有るので、観点別に記してみよう。

自室に飾りたいと云う思いに駆られたのは、山本六三の銅版『ノスタルジィ』。ネットで調べたら7万前後の値が着いているようだ。ちょっと無理。

塑像作品では合田佐和子の『仮面』が面白かった。

一部しか知らなかったものの、この展示で全体が見られたという意味では、ベルメール作品の出展が有難かった。『ウニカ緊縛』なんてものもある。

シュルリアリスム系統では、デルヴォーの『森』が妙に印象に残る。ヨーロッパではなく、南国の森を描いているのも一因だろう。南国に関連するものは『高丘親王航海記』の自筆地図以外、ほとんどないからだ。

バルテュスの『嵐が丘』は、(日本の)少年少女向け冒険小説の挿絵、と云った印象で、日本のアニメ文化などに通じるところが感じられた。いまこうして書いていると、宮崎駿を想起させるな、などと思ったりする。

加藤郁乎の出版記念会に集まった人々の集合写真は澁澤の交友関係や当時の人間関係の一端が垣間みられて楽しい。

圧巻は四谷シモンのオマージュ作品『天使ー澁澤龍彦に捧ぐ』。少年らしさを残した端正さ、清潔さ、気品、(天使だから当然とも云えるが)すべての俗事から解放されているかのような純粋さ、見る物は見、知る物は知った後、すべてが終わり浄化し尽くしたかのような眼差し。。。 芸術を言葉で表現するのが不可能と云うことを教えてくれる素晴らしい作品だった。

その他、雑誌『血と薔薇』の表紙写真に使われた貞操帯から書斎の写真、自宅に飾ってあるサド侯爵の自筆の手紙まで展示してあり、澁澤ファンは必見の展覧会になっている。また、澁澤自身にそれほど興味がなくても、ピカソ、クレー、ダリ、マグリット、スワンベルク、ルドン、モローなどが出展されており、幻想美術が好きな人なら大いに楽しめる企画となっている。

わたし自身は心底楽しむことができた。だが開催の労は一方ならぬものがあっただろう。どこかのコレクションをそのまま持って来るだけのものとはちがい、国内のあちこちに散らばっている作品をひとつひとつ集めてくるのは容易ならざるものがあったに違いない。主催者はもちろん、監修の巖谷先生や、龍子夫人をはじめ、この企画のために骨を折っていただいた方たちに感謝の気持ちを伝えておきたい。

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消しゴム付きシャーペン

机以外の場所での筆記が多いので、シャーペンは消しゴム付きが条件となる。キャップを外さなくても軸を捻れば大きめの消しゴムが出てくるタイプのものだ。初めて買ったのがぺんてるの「TUFF」シリーズで、使い勝手がいいので現在も愛用中である。

一度紛失したときにパイロットの「Presso」も試してみたが、これは芯がすぐに折れて使い物にならない。そもそも丸の内オアゾの丸善に「TUFF」があれば迷わず選んでいたのだが、生憎置いてなかった。そこで仕方なく「Presso」を買ったのだが、まあよくバキバキ折れることよ。替えゴムの交換法を印刷したシールが2枚も貼ってあり見栄えがよくないだけでなく、この使い辛さには呆れた。

シャーペンにも個体差があるのだろうか。もし、たまたま出来の悪い個体に当たってしまっただけなら、「Presso」の欠点を記すのは不公平だが、ここは文具のレビュー専門ではなくただ使用感を述べているだけなのだから許されよう。

したがって、芯送り出しのボタンが軸側にあるタイプのものが必要、という人以外には、ぺんてるの「TUFF」シリーズの方をお勧ススメします。

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鎌倉日帰旅行

昨日は早起きして鎌倉へ。

往復とも早めの時間の列車に乗ったせいか、とても空いていて快適だった。グリーン車は新橋間550円だがそれだけの価値はある。

北鎌倉で下車して円覚寺に拝観。展望台でところてん(黒蜜がけ)とあんみつを食す。それまで散々歩き回って疲れていたの黒蜜とあんこの糖分に身体が癒されるのを感じる(笑)。

源氏山公園を回って鎌倉駅の方へ。今回鎌倉に出かけたのは2年前に偶然入ってもう一度行きたいと願っていたレストランを再訪するのが大きな目的。いままでの人生で最高に旨いチキンカレーが忘れられずにいたのだ。今回源氏山公園から下山するとすぐにお店は見つかったが生憎GW期間は特別メニューのようでチキンカレーはなかった。仕方なくチキンのコンフィを注文するが、残念である。次はGWを外して来よう。

夏日だったせいで日差しがキツい。小町通りの近くの帽子専門店で帽子を買い求める。3800円の中国製だが、軽くて機能的(日差しをよく遮ってくれる)でとても気にいった。ただし妻は”完全に似合わない”と云っている。帽子屋なんて初めて入ったが、結構値段が張ることを知った。一番気に入ったのは2万5000円以上する。何でもいいものはそれなりの値がするものだ。

喫茶店でお茶とケーキをした後はどこにもよらず4時前の列車で帰ってくる。山道を歩いたせいで膝がガクガクするが、お土産(自分たち用)に買った鎌倉ハムのサラミが滅法おいしいので差引ゼロ。全体としては満足できる休日と云うことになろう。

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トーストはトースターで

Amazonで買ったオーブン・トースター、象印「ET-VS35」が届いた。
いままで電子レンジのトースター機能を使っていたが、やはりトーストはトースターで焼くに限る。ハム、チーズ、トマトのサンドウィッチにして、一斤近く食べてしまった。おいしく焼けて満足。値段もいたって安く、賢い買物をしたと自己満足もある(笑)。

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カート・ヴォネガット死す

一作しか読んでないので追悼のコメントを発する資格なぞないのであるが、その一作が非常に印象深く脳裏に刻まれており、そのことだけは記しておいてもいいだろう。

その一作とは池澤夏樹訳の「母なる夜」。人気作家であることは知っていたが、現代を裏側から照射するその悲劇性に一驚したことを鮮明に覚えている。装丁もシンプルで、この現代的な悲劇に正に相応しいと思ったことも。こんな読後感を残してくれた作家はそうはいない。他の代表作もこれから読んでみようかと思っているところである。合掌。

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